仏教知らずは日本語知らず

第1回 仏とは

 そもそも仏とは何のことなのであろう。
 まずそこから、明らかにしていきたい。
「けさ、祖父が仏になりました」
「仏さまに、手を合わせてやってください」
 こう言えば、その日の朝に人が死んだ、ということであるし、死んだ人に手を合わせてください、という意味であることは誰でも分かる。
 まさか、祖父が仏像になった、とは思わない。
 このように、今日、仏といえば死んだ人のことを指すことになっているが、本来の仏教に、そんな意味があるのだろうか。
 結論から先にいえば、全くないのだ。
 仏とえば死んだ人のこと、死人の後始末をするものが仏教だと、現代のほとんどの人がそう思っているから、仏教に対する一般的なイメージは、じめじめとした、暗い、老人臭い、または抹香臭いものになっている。
 少なくとも、若者が聞くものというイメージはない。
 しかし2600年前、インドでは、お釈迦様の弟子はみな若者であった。
 日本では親鸞聖人が、わずか9歳にして出家している。
 それもそのはず、仏教とは生きている人に用事があるもので、死んだ人には関係がない教えであるからだ。
 こう言うと意外な感じがするかもしれないが、実際に釈迦の教えを聞いてみよう。
 あるときお釈迦様に、質問した人がいた。
「長いお経を読んでもらったら、死んだ者が極楽へ行って仏さまになれる、と言う人がいるのですが、本当でしょうか」
 するとお釈迦様は小石を手にとって池の中に投げ込んだ。
「この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」
「そんなことで、石が浮かぶはずがありません」
「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない」
 あっさりと否定されている。
 それなのに死んだ人のことを仏だと言うのは、全く仏教に対する無知からくるものである。
 仏とは、大宇宙最高のさとりを指した言葉なのだ。
 一口にさとりといっても、下から上まで、じつに52ある。これを、さとりの52位という。
 山を高くのぼるほど眺めがよくなってくるように、この位を一段一段のぼっていくにつれて大宇宙の真理が分かってくる。
 てっぺんまでのぼれば、みな分かる。
 ではそこまで到達するにはどれくらいかかるのかというと、三大阿僧祇劫の間断なき修練が必要だという。
 阿僧祇というのは億や兆とは比べものにならない高い桁で、劫とは4億3千2百万年のことであるから気の遠くなるどころでない時間である。41段目に至るまでに第一阿僧祇劫、41段目から47段目までに第二阿僧祇劫、47段目から50段目に到るまでに第三阿僧祇劫を経て51段、52段となるという。
 その、さとりの52位の頂上の位を、仏というのである。
 そこまで登りつめた人は、今日まで、お釈迦様以外にない。
 また41段までいった人は古往今来、龍樹と無著の二人だけである。中国の南嶽慧思禅師が10段目、天台大師は臨終に弟子の智朗が「師はいずれの位に居るや」と尋ねたのに対して「我れ衆を領せずば必ず六根清浄の位に至らん。されど、利他の為に己を損して只、五品弟子位あるのみ」といって、9段目までしかさとれなかったと自ら告白して死んでいるのであるから、いかに仏のさとりが高遠であるか分かるであろう。
 同時に今日、私は仏のさとりをひらいたと言っている教祖たちが、いかにあわれであるかが分かる。
 数あるさとりの中でも最高の、仏というさとりをひらいたお釈迦様が、私たちに最も大事なことを教えていったものが、仏の説かれた教え、つまり仏教なのである。
しんらんネット